ストイック太郎の人間真理を研究するブログ

ストイック太郎が自身の生活を通し人間の根源的真理を研究するブログです

高次の感情の獲得について

昔、引き寄せの法則的なものに強烈にはまった時期があった。引き寄せの法則の中で「自分が願いを叶えた状態を想像してその感情に浸る」とういうものがある。そうすれば、自分がもうその感情を手に入れているのだから必要な状況は勝手に用意される、という理屈だ。これは今思えばほぼ不可能だ。というのはその感情というのは「願いを達成した後」でなければ分かりようがないということだ。達成していない状態で感じるというのはオリンピックで金メダルを目指しているアスリートが、「オリンピックで金メダル達成後の感情に浸れ」と言っているということだ。スポーツ選手がよく実践するイメージトレーニングなどでなんとなく想像したりすることは可能だろうが、その感情を完全に体感しろというは無理だ。感情はその時その状況に置かれたものにしか分からない、分かりようがない。

エスキリストが人の目の前で物質化を体現したという話を聞いたことがある。イエスキリストはその物質が目の前に無から現れることに対して「一点の疑問を持たない」という意識を持つことができたからだと思う。普通の人間にはそんなこと不可能だ。

では我々はどうやってそうした高次の感情を獲得すればいいのだろうか?宗教や信仰にあるようないわゆる覚醒的なものに出会うには日々の修養や個人の気づき(自己観察)などの地道な積み重ねだろう。そしてなんとなく筆者が感じたことは、覚醒とか悟りと言われるようなものは全てその本人が感じる「体感、感情」にあると思う。だから、悟りとはなんですか?と聞かれた時にそれが言葉で説明できないのだ。

「感情」は強い。その人の本質に働きかける、そして感情の面白いところは熱を持ち、その場限りというような側面もあるのだ。「なんとなくいいと思った、楽しかった、興奮した」その気持ちは時間がたてばすぐに消えてしまうがすごく価値のあるものだと思う。これからAIが普及していく世界でキーとなる部分はそういった人間の本質にアクセスするものかもしれない。

 

「できる」「できない」で考える

色々なことに着目し、年単位で取り組んでいるとまあ人間というのは出来ない事だらけの生き物だなと感じます。そこでふと振り返ってみると、人と比べて簡単に自分が「できて」しまうこともあれば、びっくりするほど長時間取り組んでも「できない」事があります。人間はグラデーションの生き物なので程度の差はあります。また今までできなかった事が、ある日突然できるようになったという事も人によっては様々なレベルであるかも知れません。ですが多くの場合、人間が持つ元々の気質であったりRPGゲームでいう属性(attribute)のようなものは根深くなかなか変えることはできないものだと思います。最終的には自分の実感だと思います、「お、これは俺得意だな、なぜかできてしまうな」というものもあれば、「こりゃダメだ。俺には向いてない、できる気が全くしない」というものが大なり小なりあります。それも自分や環境の変化によって動的に変化していきます。苦手なものでも向き合い続ける事で得られるものも勿論ありますが、自分で「できる」「できない」という見切りをどこかでつけることによってよりシンプルに、次のアクションに前向きに取り組めると思います。単純にだらだらとエネルギーを使わなくなるからです。そして基本「自分ができないもの」はやっててつまらんです。筆者の感じ方では「あんまり幸せではない」という感じです。若者の間でMBTI診断というものが流行っていて、よくタイプは何か?という事を聞かれたりするのですが、自分を知ってなるべく生きやすく生きようというそういった意識の現れ方なのかも知れません。

今日はこのへんで。

「分かる」という事はどういうことか

最近は哲学の書が面白いので色々と読んでおりました。哲学というのはネガティブな言い方をすれば「なんでもない事を延々と長い文章でつらつらと余分に書き連ねただけ」という様な言い方もできますが、「人生最後は哲学だ」という部分もあり自分の思考の基盤を固めることによって、他者からの誘導に惑わされなくなったり、物事の継続性を高め大きな出来事を達成するファンクションともなります。何かが正解というわけではなく、自分との相性を見ながら色々読み進めていくことにより自分の思考という球のようなものが磨かれていきます。

ではそういった様々な知識を知恵に昇華する過程とも言えますが、そもそも「分かる」という事はどういうことなのか、というと単に部屋に延々と籠って本を読み漁って知識を吸収した様な気になってもそれは「分かる」という事ではなく、「分かる」というのは身体的動作の中でモノや人などの対象を起点にして自分の感情と紐づいた時に「感じる、体感する」ということなのだと思います。つまり人間は「経験したことが無い事は分かりようがない」ということになります。社会人経験のない企業組織論を話す大学教授よりも、会社で嫌味な上司に怒られている新人社員の方がよっぽど社会を「分かっている」ことになります。

では、「分かる」ためにはどんどん行動すべきなのかというと支払いは一大原則の理論の通り、行動プラスαで人間のある「成分」が必要なのかなと最近感じております。この成分のことをグナという風にヨガでは呼ぶようですが、これはなんとなく現場で空気を読んだりある対象と自分を結びつけるために必要なチップのようなものかなと思います。このチップがないとまず相手(対象)と交渉のテーブルにつけないような感覚があります。今までエネルギーという言葉を使ってきましたが、「元気があればなんでもできるとは限らない」のが今の時代ですので前を向く時はこの精度の高いエネルギーをいかに自分が持つことができるか、理論偏重にならず自分の本質の強度を上げていくにはどうするか、複雑ですがこの二つを考えていかねばなりません。

今日はこの辺で。

正解のない苦しさ。人間である以上人間を超えられない。

ある程度自分なりの経験則を見出し、自分の心身を調和・統合するために継続する。しかしこの世はあまりに自分でコントロールできないものが多く時に失望し、落胆しまたそれを受け入れる。そして強くなる。強くなるというより「自分の無自覚さに気づく」ということなのだろう。世の中の仕組みを知っていくという事だ。そして自分なりに何かを悟る。この世の深淵を垣間見る。

何か自分に強い負荷をかけ、そして試行錯誤し大いに悩み中庸を見出す。しかしその中庸も安定しておらず自分の手から離れていったりまた近くにきたりする。結局人間である以上人間を超えられないのだ。だから人間は長い歴史の中で似たような動作を繰り返してきた。感情的になり戦争を繰り返し、金で操られ、欲に狂い平和を破壊する。かつて古代にあった高度文明が滅んだ理由は結局、人の心が理由だろう。歴史上の偉人たちからもちろん学ぶことはあるし、社会という枠組みの中で生活を送る以上人間が作り出した「ロゴス」からは逃げられないし逃げるべきではない。ただ同時に「フィシス」も学ぶ必要がある。筆者が今年自然に魅せられた理由はそれだった。自然にはいっさいの無駄がない。栄養を吸収し、ただ自然に生成し成長する。しかし、人間は自然に「成る」ことはできない。つまりどんどんデジタルデバイスが発達したり、機能が都心部に集約される現代においては、このバランス感覚を養う必要がある。

正解がない中で正解を見出すとするならば、「偏らないこと」「自分の軸から乖離しないこと」であろうか。

今日はこの辺で。

 

心と体。変化していく自分とどう向き合うか。

幽玄微妙。心とは移ろい易く、変化していくものである。一心不乱に「自分で自分を調和的に発展させていこう」という気持ちで色々な理論、定義を打ち立ててきた。しかし人間という生き物は合理的にできておらず、さらに他者という存在を絡めて考えるとその複雑さたるや、言葉にできることなどほとんどないのではないか?と考えてしまう今日このごろである。人間という巨大な謎に飲み込まれないよう哲学の書物などを参考にしつつも、よりシンプルに日々を過ごさねばならない。

睡眠、運動、食事、蓄精、虚像禁、マインドフルネス、腹式呼吸、自然浴、読書、社会活動、仕事、感謝、有り難みを感じる。当たり前のことを当たり前に実行し自分の軸や基盤を作ることが大事である。過去の記事で提唱した基盤理論(要キーワード検索)は困難な道ではあるが強い土台を作るという意味ではこれ以上ない方法であると私的に考える。

過去に何度も書いた記述であったとしても、「思考の塗り直し」という意味で自分の思考体系に蓄積される。考える事をやめてはならない。また何も考えない、というバランス感覚も大事である。老化により上記にあげた活動が年々高い品質で行えなくなるということも避けられないため、自分にあったペースを考え日々確立することが肝要である。特に35歳以上の男性は怪我に気をつけなければならない。回復が遅い。「自分を日々発展させた上でも心は移ろいやすいもの」という認識を最後に持つこと。これは人間の脳が合理的に出来ていないためである。昨今、世界情勢や国内政治が不安定であるがこの文章を受け取った男性が日本の国力の進化向上に邁進されることを望む。

今日はこのへんで。

 

静かな強い心(自然体)

自然(フィシス=生成し成長する)という存在に魅せられ沖縄の離島に旅行にいって参りました。人の手が入っていない自然豊かな場所は「ただ素晴らしい」という一言に尽きる。島を覆う黄金のエネルギーを補充しに、また是非足を運びたいと思います。

さてここ最近の雑感ですが、真理の探究という大いなる自己満足を通して新しい発見があったようで、ただ神の掌をぐるぐる回っていただけではないか、という小さな疑問があります。健康な食事や運動が完全に習慣化され体が引き締まったのは事実ですが、いい年したおっさんが何やってんだ、もっと他にやる事あるだろうがという声が何処からか聞こえてくるようになりました笑。

本当の人間の強さというのは無理に方法論で我慢して作り上げるものではなく、淡々として気張らずとも静かな心の強さを持っている事なのかなと思います。そういったものを普通の状態で持てていけるようにまた考えていきたいと思います。

物事の本質・真理に近づいている...

色々と研究を進めてきましたが、だんだんと真理に近づいてきました。筆者は悟りを得たかった訳ではないのですが、この世は我々の理解を遥かに超えた創造主のような存在がいて無限の愛のようなエネルギーで創り上げられた世界のようです。果たして潜在意識はどこへ連れていこうとしているのか..。まだ筆者は人間として、現世でやるべき仕事もたくさんあるのでバランス感覚を持ちながら進めていきたいと思います。

「潜在意識は動いている」

あれから筆者は修練を続けておりました。続けてというより「勝手に体が動きだし」自分に必要な動作や情報を身体という「エネルギー体」に集めているという感じです。

これは潜在意識によるものと思われます。今は基盤という概念から外れ、睡眠、食事、運動、瞑想(タオのトレーニング)、書物、先人によって残された叡智を自分に必要な分だけ潜在意識が自分の顕在意識に働きかけオーダーし、吸収しているという感覚があります。あまり触れたくはないのですが、蓄精や虚像(物理世界、ネット世界含む)禁という概念は過去に提唱した理論の通りこの潜在意識という無限の叡智にアクセスするために必要な動作であると思われます。食事に関しては非常に難しいのですが、かつて原始の世界に存在しない食物や添加物はあまり摂取しない方がいいと思います。内臓がおかしくなるからです。これは鈴木祐氏の「最高の体調」という書物に詳しく書かれてますので読んでみてください。内臓が弱くなると体幹そのものが弱くなります。

当初このブログに書き始めた頃の禁欲思想からこの世界線に来るまで11年位かかったことになります。修練というものに終わりはないのだという事を感じます。

筆者が言葉にできなかった「なぜ辛い思いをしてここまで自分と向き合ったのか」、それは「自分の潜在意識にアクセスし自分の潜在的な能力を掘り起こしたい、高めたい」ということだったのかなと現時点では思います。あとは徳のエネルギーや、人間の物理的な肉体以外の霊体のようなものを発達させるためでしょうか。これに関しては、タオやグルジェフの書に書かれていますが、なんせ肉眼で確認できないので理解が難しい部分があります。ただ街や人間が纏うオーラ、雰囲気みたいなものに対しての感度は大分増してきております。

また何か書きたくなったら無意識に任せ書きたいと思います。